事故の意味について

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数あるブログの中から、ご訪問頂きまして誠にありがとうございます。
事故は予測が出来ない為、私達は事故を偶然の産物と見なします。しかし本当は偶然というものはありません。私は偶然というのは神が私達に語りかけるために使う一つの手段に他ならないと考えています。

ですから、体のどの部分に怪我をしたのか、また怪我の重大さはどれくらいなのか、ということに注目する必要があるでしょう。

事故が起こったということは、その人が罪悪感を感じているということです。あるいは、自分の何かを責めているということです。

例えば、母親が家事をしている時に子供が他の部屋から彼女を呼んだとしましょう。母親は聞こえないふりをして家事を続けました。ところがしばらくすると、母親は転んで脚を怪我するのです。「私は何を考えていたのだろう?」と自問してみれば、ただちに自分を悪い母親だと考えていたことがわかります。したがって悪い母親にふさわしいように、体の一部を傷付けたのです。

事故にあうのは、私達が自分の罪悪感を中和するためです。事故にあうことによって自分の罪悪感に対する支払いをするのです。しかもそれは無意識の内になされます。

罪悪感に対するあなたの考え方を見直す必要があるでしょう。私達の法律体系において、ある人が意図的に悪を行なったと立証された時に、その人は有罪であるとされます。

ですから、今後あなたが罪悪感を感じた場合、あなたは本当に悪をなそうと意図していたのかを、自問して頂きたいてのです。もしそうでないのなら、あなたは自分を責めるのをやめなければなりません。あなたは自分を罰する必要などないのです。

そもそも、ある人が実際に悪いことをした場合《原因と結果の法則》が働いて、その人を罰します。というのもすべては、私達の意図に応じてブーメランのように必ず私達のところに返ってくるからです。

ですから知恵と責任感のある人というのは、自分が実際に罪を犯した時に自分の罪を認め、相手に謝り、いずれその報いが自分にやって来ることを受け入れる人のことです。そういう人は、その報いを静かに受け入れ心を乱すことがないでしょう。つまり、自分の罪に意識的であることが出来るのです。全てか神聖な秩序の内にあることを知っているのです。

もし、あなたが休息の時間を作る為に無意識のうちに事故を起こしたのだとすれば、あなたはそんなふうに自分に痛みを与えなくても、休みを取ることが出来たのだということを理解する必要があります。

もし事故が重大なものであって、骨折のようなひどい痛みをともなう結果を引き起こしたとすれば、それはあなたが、他の人に対して攻撃的な思いを持っていたということを示しています。そして、その思いは必ずしもあなたによって意識化されていたとは限りません。

そうした攻撃的な思いを持っていることを、あなたは自分に対して許せないのです。そして、その攻撃的な思いが自分自身に向けられたわけです。

ですから、そんな場合にはあなたは、その人に対する思いを上手に表現し、自分自身を解放しなければなりません。その際にそういう思いを持った自分を許すことが非常に大切です。

著者

shujisun

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